2013年06月23日

The Great Gatsby - Scott Fitzgerald

 ここ数年で劇場まで観に行った映画と言えば、昨日の『華麗なるギャツビー』と、数年前の『ノルウェイの森』だけ。

 まあこれくらい偏っている志向も滅多に無かろうと思うが、元来、見知らぬ人と椅子を並べて、大スクリーンを眺めて感動しろと言われてもなかなか難しい性質なので、いきおい劇場に足を運ぶのは“何がなんでも観たい”作品に限られてしまう。

そしてこの、世界でもっとも美しくて哀しいと評される“ひと夏”の物語を、約2時間半の映像で観られるというのは、仕事の予定を調整して劇場に足を運ばせるのに苦は無かった。

 映画は想像をはるかに上回る美しさだったが、それでもやはり文章の美しさを映画で表現するのには限界があると思った。
 これは映画が文学より劣るというのではなく、おそらく逆もまた真なりと言える。

 そもそもこの映画の主幹を“ギャツビーとは何ものか?”という点に置いたプロモーションをしなければならない興行事情はやむを得ないとはいえ、言うまでもなく原作はミステリではない。
 それどころか、原作のストーリーそのものにも大きな意味を見いだす事は(少なくとも私には)難しく、あくまで人物描写が本作の骨格であり、血肉であり、装飾衣類であると言える(と、思う)。

 私たちが本当の意味で、時代と運命に翻弄される登場人物たちの息づかいを感じる事は、今となっては絶対に出来ない。
 世界恐慌前夜の狂乱を振りかえることができるのは、その時代を生きた人たちであり、ノルウェイの森を感じる事ができるのは団塊の世代だろう。
 80年代〜90年代に人生の“ひと夏”を過ごしてきた我々にとって、そういった価値を持つ小説は、私の知る限りではいまのところ、ない。

 しかしこの映画には、劇場に足を運んでまで観る価値があるかと問われれば、答えは間違いなくYes。
 だからこのブログでも、ネタバレ的な内容は書かない。

 ただ唯一、どうしてもここに書きたい事といえば、「オールド・スポート」を、「友よ」と字幕にしてしまっている点だ。

 村上春樹も訳書のあとがきで触れているが、「オールド・スポート」は「オールド・スポート」以外の表現にするのは不可能だ。
 それは、今どきの女の子が「チョーかわい〜!」と言っているのを、「極めて愛情を感じるわ!」と訳すのと同じくらいの誤訳である。

 村上春樹の作品では、蛍の光はいつも、ぼくが伸ばした指先のほんの少し先にあった。
 それが、暗闇で緑の灯火に両手を差し出していたギャツビーのオマージュである事は、もはや疑いようもないが、それがわかってしまって美しさは増しこそすれ、色あせる事はなかった。



Posted by たまじゅん at 09:54│Comments(0)
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